【インタビュー】100%国産天然乾燥の木材でログハウスを建てる(有)アシストの畠中実さん
<森の暮らしを造るお仕事 – 家を通じて人と繋がる>
鄭美羅(チョンミラ)
山梨県北杜市でログハウスをメインとした木造住宅の建設会社(有)アシストの代表取締役を務めている畠中実(はたけなか・みのる)さん。中学生の頃から建築家になりたいと思っていた彼は、日本大学理工学部建築学科に進学し、1978年日本空港ビルディング株式会社に入社してから羽田空港の関連施設及び羽田空港旅客ターミナルビルディングの沖合移転など主に空港ビルのプロジェクトを担当してきた。
約40年間建築業に携わっている彼だが、都会のビルから八ヶ岳の森の中のログハウスへ、建築家としての転機を迎えたのは八ヶ岳に移住してきた1989年からだった。移住のきっかけになったのは、予想もしなかった病気だった。スノーモービルから落下し、頭をぶつけた事故の後、原因不明の耳鳴りや過呼吸で苦しんでいた彼は都会から離れることを決心した。
「身体と心は一体だと感じました。どちらもバランスをとらないと続けていけないと!最初は建築を辞めて農業をやろうと思っていたんです。自分が感じられる世界の中で暮らしたいと思ったので。人間のスケール感を超えてしまった建物を見て、もう携わりたくなかったです。」
生きている中で予想もしなかった事件は人生の流れを変えた。当時、「このままじゃ仕事もできず社会人としての人生は終わった」と思った彼だが、それは新たな人生のスタートラインになった。ログハウス建築に取り組み始めたのもそれからだった。
「いつか家を建てる時はログハウスにしたい」と思っていた彼は、八ヶ岳への移住と共に、ログハウス建設会社(有)自然工房に入社した。建築学科出身とは言え、木造建築に対する専門知識を持っていなかった彼は、一から勉強しはじめた。都会の大きいプロジェクトでは歯車の一部に過ぎない感じがしたが、ログハウス建築には「自分の手の中で全てが把握できる」生きがいがあった。丸太の皮むきをしたり、純粋に身体を動かして汗をかく喜びを感じたと言う。
独立して、森のすまい工房(有)アシストを設立したのは2001年のこと。スタッフと一緒にやるという意味で、社内公募で社名を決めた。
そして、ログハウス建築家として、もう一つの転機になったのが、2002年、榊原正三(さかきばら・まさみ)さんとの出会いだった。
ほとんど外国産の木材を使っていて、使えない木も多く、捨てられた山積みの木を見て、ある日「俺達の仕事は何だ?」と違和感を感じたと言う畠中さん。それから日本の木で家を造りたいと勉強し始めた彼は、日本で戦前から行っていた「葉枯らし乾燥」のことを知った。昔は機械がないことから木を乾燥させて木材にするには天然乾燥の方法しかなく、昔通りのやり方で月齢伐採と葉枯らし天然乾燥の木材を提供しているのが榊原さんだった。(※月齢伐採:冬の満月から新月に向かう半月は木を伐らずに満月から新月に向かう半月の間だけ伐採をする方法)
ほとんどのログハウスが北欧のブランドものの資材を輸入して建てられている中で、(有)アシストの特徴は月齢伐採で伐った100%国産の天然乾燥の木材でログハウスを建てることである。しかし、これを実現するまでの道は簡単ではなかった。
「100%国産の木で家を建てたい」と言い出した時、スタッフのみんなに狂っていると言われた。しかし、実際に一緒に山に行って、木を伐ってもらってからスタッフの反応が変わった。木材を使う仕事とは言え、普段木を伐ることはまったくない仕事でもある。山で約90歳の木を伐ってもらった時、どーんと悲鳴のような音が聴こえた。その経験からスタッフもみんな彼の意志を納得してくれた。
畠中さんはスタッフと共に今まで約140棟の家を建ててきた。140世帯の家族が住む家を造ったことになる。設計の時から住む家族の人生や希望を聞きながら建てるので、建物一つ一つに思いがある。
「特にログハウスは買うものじゃなくて、建てるものですね。一棟一棟が全部違って、個性の強い建物です。だからこそ、住む家族に自宅を建てる過程に参加してもらうようにしています。」
それで、自宅の材となる天竜杉の月齢伐採体験や葉枯らし自然乾燥を終えた木の皮むき体験を提供している。また、毎月第2土曜日にはログハウスの造り方を教えるログスクールも開催している。
そんな畠中さんのこれからの課題は、100%国産天然乾燥の木材で家を建てる会社がほとんどない現状で、これをいかに次世代に引き継いでもらうかということ。
「どんなに時間がかかっても納得いくものを造りたい」と語る畠中さんは、彼が家造りという仕事を通じて沢山の人々に会えたように、彼が携わる家を通じて地域や次世代に繋がる「家を通じての人との繋がり」を願っている。